ぐらっぱ亭の遊々素敵

2004年から、主に映画、音楽会、美術展、グルメなどをテーマに書いています。

「魔笛」@日生劇場

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久しぶりにオペラを観に行った。今回も両組を観たいと思ってたが、現実にはこれがなかなか出来ない。決め手は、森谷真理、高橋絵理、そして梅津 碧

演出も無理がなくすっきりしていて、違和感、まったくなく、それでいて、従来のものとは異なる新味は感じることができた。

キャストでは、ほかに夜女を見事に歌いきった新進の中江早希の今後が楽しみだ。それにしても豪華なキャスティングで、武士Ⅱですでにベテランの域に近づいている北川辰彦を起用すると言う余裕。

パパゲーノの石野繁生は初めて聴かせてもらったが、存在感たっぷり。タミーノ役の西村 悟と森谷真理の組み合わせも、とてもフレッシュで観ていて気持ちの良いカップリングだった。

ザラストロのデニス・ビシュニャ、見応えはたっぷりだが、声にもう少し重みが加わると更によかったろう。

ベテランのテノール大川信之のモノスタトス、メイクもスタイルもかなり型破りで(つまりあまりモノスタトス風でない)、持ち前の表現力を駆使して出番はそれほど多くはない役どころだが、それなりの存在感を示したのではないか。

安定感たっぷりの合唱団、ヴィレッジ・シンガーズ、今回も歌唱だけでなく、演技力も期待通りの力量で、楽しませてくれて、大満足!

#32 文中敬称略

「Vision」

180613 監督・脚本・編集・プロデューサー:河瀬直美 題字も自分で書いている。多芸・多彩な人物!

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奈良の吉野が舞台である。うっそうとした森の中で、鹿狩りをする老人(田中泯)。銃を構え直した瞬間、目を大きく見開き、絶句。これがのちの伏線となる。

劇中語られるヴィジョンとは薬草ということで、それを探しにはるばるフランスからジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)が訪ねてくる。

自分を山守と位置づけ、森の中で一人暮らしをする智(永瀬正敏)の元へ、ジャンヌは通訳の花(美波)と半ば強引に入り込む。花が途中で帰ってしまうから、ジャンヌは英語が達者でも、こりゃ意思の疎通に事欠くかと思えば、智は実は英語ができるという設定。(ちょっとこの辺り、安易かなと思ったが)

二人の間で、かなり哲学的な話題が展開するのもいかにも唐突感は免れない。「見る、聴く、触れる、感じる、それがすべてだ」みたいなことを食事中に智がボソッとしゃべり、これに大いに共感するジャンヌ。そして、その晩、すぐに男女の中に、というのも、なんだかなぁー。

しかし、この辺までは、まあまあついて行けるのだが、この後、さまざまな人物が登場し始めると、見てる側はどんどん混乱していく。こんなセリフにも深い意味を持てせようとしてるのか。「死とは眠りの一部でしかない

智と近所づきあいで懇意にしているアキ(夏木マリ)は、いわばシャーマンのような存在らしく、いろいろ森について謎めいた言葉を智に投げかける。今から千年前に胞子が放たれ、次のチャンスが今到来していると言う。

どうやら解説によると古事記に基づいている話らしく、それを知らないと、監督が言わんとしていることの半分も分からない。これでは、興行的には結構厳しいと思わざるを得ないと、つい余計なことまで考えてしまった。

火、鹿、白い犬、などなど、隠喩としてさまざまな含意があることが、段々分かってはくるが・・・。

逆光、望遠撮影を多用した撮り方に工夫が凝らされていることと、景色の美しさには呆然とするような場面が少なくないので、そんな中で、独自の死生観、あるいは人間の輪廻のようなものを感じられれば、それでいいのかなとも思って、見終わった。

劇中、頻繁に出てくるトンネルは、あれは彼我の世界の接点なのだろう。それにしても、手の込んだ作品を作り上げたものよ。カンヌでは常連のこの監督、フランス人にどう評価されるか、興味津々。

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ビノシュ(54)はさすがの演技である。また夏木マリ(66)のすっぴんでの熱演にも感嘆あるのみ。こう言う役どころをやらせたら、天下一品だろう。彼女の日本人としては彫りの深い、立体的な顔がみごとにこの役にはまっている。

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#50 (画像はALLCINEMA on line)から

 

 

「人間・高山辰雄展」@世田谷美術館

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この美術館、建物自体も素晴らしいし、緑に囲まれた環境も絶佳なれど、アクセスが悪くて、なかなか足が向かない。ところが、最近同展を鑑賞した、船橋在住の姉から「隣の区に住んでいながら、なんなの、その言い草は!」とばかりに、強力に勧められ、バスの時刻表まで写メで送られては、さすがに見に行かない訳にも行かず、今日、それを実行。

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まあ、確かに、この展覧会、行ってなければ後で大いに悔やまれるところだった。それほど素晴らしいということ!

高山辰雄は、もちろん作品も多少は知っているつもりだったが、これほどとは、と言うのが正直なコメント。詳細▶︎高山辰雄展

今回は前後期合わせてだが、実に103点もが一堂に会する大回顧展。こんな機会は滅多に巡ってこないだろう。しかもほとんどが大作であるから、見応えたっぷり。

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砂丘」(1936) 砂丘の風紋の面白さに惹かれて描いた。寝そべる女性は後に辰雄の妻となる、友人の妹の友達だそうだ。砂丘と人物は別々に描いて、後で合わせたと自身が述べている。左側におかれたのはスケッチブック。表紙にCAHIER D'ESQUISSEと見える。人物画としても素晴らしいが、全体の構図といい、色調といい、唸らせる。24歳の作品とは思えない出来栄え。

年齢を重ねるにつれ、モノクロームに近い幽玄な作品に変化していくところがよく分かる。

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この「室内」(1952)という作品、一見してその影響を色濃く受けていることがはっきり見て取れるが、ゴーギャンに傾倒した時の作品らしい。その前に、自信をもって出品した作品が日展であえなく落選。意気消沈している時に、画家仲間か先輩からゴーギャンの良さを吹き込まれていたらしい。

この人の作風は、構図もさることながら、やはり前半の作品における色彩感覚がそれはすばらしい。後年は、前述の通り、どんどん枯れた作風に変化していき、それはそれでまた鑑賞する側を圧倒してやまない。

ところで、この人のサインだが、1950年の「赤い服の少女」に初めて辰雄という字を少しデザイン化したサインが登場、脇には落款が見える(なんという字が自分には不明)が、その後、サインは入れたり入れなかったり、気分次第なのか。後年は辰雄の字を別な形で崩したものが登場し、以後、それで通したようだ。

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「食べる」(1973)  この作品には左下にサインが見える。

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「星辰」(1983) 星辰とは星のことである。日月星辰を晩年はテーマのひとつに掲げていた。しかし、彼が終始興味を持ち続けたのは人間である。それゆえ、展覧会のタイトルにもわざわざ「人間・高山辰雄」としてある。子供、親と子を主題に取り上げた作品のなんと多いこと。

平日の午後とは言え、こんな素晴らしい展覧会なのに、館内は人影もまばら。おかげでゆっくりじっくり堪能でき、こんなありがたいことはない。今回ばかりは姉には感謝しかないなぁ。

コバケン@ミューザ川崎

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舞台後ろのP席も満員で、演奏者、オケ、演目、いずれも人気が高いだけにこれも当然。前半、後半ともにたっぷり堪能し、大喝采と拍手、鳴り止まず。田部京子もなんどもステージに呼び戻されていた。

コバケンは、いつものように終演後の”セレモニー”にたっぷり時間をかける。すべての楽団員とアイコンタクトし、行けるところまで上がって、握手はもちろん、時にはハグまでするという念の入れ方。

この日は、ご自慢の長めの自家製タクトを指揮台の上に置いて一旦退場、戻ってきた時に、そっとマイクをズボンの後ろのポケットに忍ばせておいたのだろう、タイムリーにそれを取り出すと、喋り始める。端的でコミカルな話し方は人柄そのもの。

「悲愴」の大切な冒頭、低い旋律を吹き始めるファゴット奏者、福士マリ子の父親は、芸大でマエストロの2年後輩だったと明かされ、改めて彼女の演奏ぶりを称賛していた。

そのつもりはなかったのだがと前置きして、「ユーモレスク」をアンコールとして演奏すると告げ、聴衆は大喜び!

自分より100歳先輩のチャイコフスキーが、一つ年下のドボルジャークと親交があり(1888年頃)、ロシア語とチェコ語で手紙のやり取りをしていたことや、「ユーモレスク」に人生の機微が、実は細かに込めらていることなどを話し、コンマスのグレブ・ニキティンに冒頭の旋律を演奏させたり、その後のパートをストリングスで弾かせて、解説してみせ、演奏に移った。

こういうサービスはファンにとっては望外の喜びであり、よくよくの事情でもない限り、改めて終演後、すぐ席を立っては絶対にいけないと思い知らされた次第。

 

#31

「ビューティフル・デイ」

180605 YOU WERE NEVER REALLY HERE 90分 英国  製作・脚本・監督:リン・ラムゼースコットランド出身 49歳)

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過酷な戦争経験と、父親から厳しい体罰を受けた幼少時の体験で、二重のPTSDを負う主人公が、ある少女誘拐事件でクライアントから依頼され少女を救い出すことに成功する。しかし、その直後、依頼主から逆に殺されそうになる。実は、その影には大きな陰謀が隠されていて・・・云々という組み立て自体は凡庸で陳腐。

ただ、主演のホアキン・フェニックスの怪演ぶりと、独特のカメラ・アングル、ややおどろおどろし過ぎだが効果的だったサウンドで、そこそこ見せ場はしっかり作れているかなという印象。

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⬆︎リン・ラムゼー監督の演技指導?

女流監督にしては残忍なシーンが容赦なく出て来るが、それでも主人公が相手を殺傷する瞬間の描写は極力さけて、今殺されたというような死体を映し出すことで、それなりの効果は生んだように思われる。

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殺された母親の遺体を湖に沈めようとする主人公、いっそ自分も母親と一緒に死のうと思い、ポケットに大きな石ころを詰め込んでブクブク沈んでいくが、救った少女のことが気がかりなのか、ポケットから大きな石コロを取り出し、この場は一命を取り留める。

ホアキン・フェニックス出演作品は、日本公開された全作品の6割ほどは見ている。独特の鋭い眼光と無愛想な表情から、どこか近づき難く、何を考えているか分からない不気味さを感じさせる。そこをうまく引き出して、さまざまな役どころを不器用だが、うまくこなしているように見える。

ベニシオ・デル・トーロ同様、プエルトリコ出身。同じくヒスパニックである、グアテマラ出身のオスカー・アイザックにどこか共通点があるように見えて仕方ない。

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少女役のエカテリーナ・サムソノフ(上の写真で右端、隣はリン・ラムゼー監督)は名前で分かるがロシア系アメリカ人。まだ14歳。「タクシー・ドライバー」のジョディ・フォスター、「レオン」のナタリー・ポートマンを彷彿させる。

内容とはかけ離れているこの邦題、ラストシーンにヒントがある。原題(直訳では「お前がここにいたことは決してなかった」)を一捻りすることもできたと思うが、これはこれで悪くない。

#49 画像はIMDbとALLCINEMA on lineから