ぐらっぱ亭の遊々素敵

2004年から、主に映画、音楽会、美術展、グルメなどをテーマに書いています。

日本の食文化に関する講演ー熊倉 功氏

小山内美江子 国際ヴォランティア・カレッジ主催の講演会に参加。場所は田町駅そば。
f:id:grappatei:20101202121206j:image
熊倉 功氏は現在、林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。「茶の湯、わび茶の心とかたち」、「民芸の発見」、「後水尾天皇」など著書多数。

101201 講師の熊倉功氏は中・高時代の同級生ということもあって、今日の受講者も半分ぐらいは我が同級生ということに。

講演では、寿司の歴史から説き起こし、日本人の食スタイルの変遷まで、90分に亘り、スライドを使用して解説してくれた。

概要は以下の通り。

東南アジア系統共通だが本来川魚保存術として、米を腹などに詰めたもの 馴れずし 近江の鮒ずし(今や極めて高額)など。18世紀に入り、発酵まで時間を要するのを、待ちきれない気短な日本人が酢飯を利用して考案したのが早ずし→江戸前など。
因みに竹田出雲作歌舞伎狂言「義経千本桜」に登場する吉野の鮎寿司(半馴れずし)専門店「釣瓶ずし弥助」(近鉄吉野線下市口駅歩15分)48代目当主宅田弥助は愚亭の遠縁に当たる。現在はその子息が49代目を務めている。

寿司は本来、屋台などでの立ち食いが基本。腰を落ち着けて食べるような種類の食事ではなかった。
寿司は今や日本以外でも急速に普及している。静岡で世界寿司学会開催の話も。

三位(さんみ)までが清涼殿へ上がることを許された殿上人(てんじょうびと)とそれこそ地べたで食事をした地下人(じげにん)
その地下人が使用したのが折敷(おしき):細い板を縁に折り回した盆の一種で,古くは神事,儀式に,また平常にも使用されたが,近時は懐石料理の敷膳(しきぜん)に多く用いられる。本来、床に置いて使用するもので、昨今のように卓の上で使用するのはおかしいことになる。→欧米のランチョン・マット

一汁三菜が基本で、やがて客人に対しては、本膳の他に二の膳、三の膳と豪華になっていく。二汁五菜。
室町時代 三方に載せて供する。白木の膳が基本で、使用後廃棄処分。

手を使うことなく調理。包丁人 格がある。包丁は現代のものとは異なり、刀鍛冶が作る。客人に料理の技を見せる。「男子、厨房に入らず」どころか、これは武士の教養の一つ。手を一切触れることなく、箸(先端は金属)と包丁のみで鯉をさばき、短冊形に身を切り裂いて客人に見せる包丁式。

オープンキッチンは近年西洋料理でも珍しくないが、元来は日本のやり方。調理する姿を客人に見せる。

食べきれないほどの料理を並べるようになって、箸をつけず、お持ち帰りスタイル。一種の堕落。
やがて原点回帰、一汁三菜の基本へ。懐石料理 食べ切る量。暖かい料理が運ばれる。
器、場所などにメッセージ性を。供養の気持ちを込めるなど。

当日やってくる客に合わせて選んだ掛け軸や生け花で客をもてなす。客もそれらを鑑賞するのが作法。料理に直行するのは野暮。
最近、料理の説明を長々とやるようになってきている。これも野暮。

明治・大正まではめいめい膳である箱膳が用いられた。大正末期に卓袱台が登場。家族が一緒に、一斉に食べる。一斉に始めるので「いただきます!」、一斉に終わるから「ご馳走さま!」

やがて1970頃になるとダイニング・テーブルへ。こうした変遷と共に食事内容も家族関係も変容。
昔は食事の席が躾の場でもあった。父親が絶対的存在。家族は食事中話すことはなかった。
やがて企業戦士化した父親不在の食卓へ。皆が存分にしゃべり、テレビを見ながらというスタイルが定着。
生活習慣病→米飯復活へ

最近、子供達が米を食べなくなってきている。これを元に戻す工夫。親世代に働きかけても無理。子供たちに直接。米飯給食の復活。