ぐらっぱ亭の遊々素敵

2004年から、主に映画、音楽会、美術展、グルメなどをテーマに書いています。

東京都写真美術館へ

140316 都営の美術館・博物館が無料になる日が巡って来たので、今回は迷わず恵比寿へ。今日は、三つの階で、いい作品展の同時開催という幸運が。先ずは3階へ。

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この人の名前は知っていたが、作品等詳細は知らず。全部で実に280点の展示。以下⬇チラシから抜粋

本展は日本の初期写真史において最も重要な写真師の一人である下岡蓮杖(しもおかれんじょう)(1823-1914)が制作した写真作品、日本画作品を中心に展覧し、日本写真文化の礎を築いた蓮杖の足跡をたどる大回顧展。下岡蓮杖の生涯を実作品の展示によってひもとく、日本初の試み。

日本人初の営業写真師は鵜飼玉川(うかいぎょくせん)の方がわずかに早いが、横山松三郎、臼井秀三郎、鈴木真一など多くの弟子を輩出した開祖の一人。下田生まれ、13歳の頃に画家を目指し、江戸狩野派絵師・狩野董川(とうせん)の弟子となり、董圓(えん)の号を得るまでに至る。絵師としての生活で写真と出会う。1859年に横浜が開港すると、アメリカの貿易商ショイヤーと関わり、その妻や宣教師の娘に油彩画の手ほどきを受け、アメリカ人写真師ジョン・ウィルソンから写真技術を学ぶ。1862年に開業するも、当初は技術的な面や薬剤の調合などが難しく苦労する。やがて技術も安定、知名度を上げていく。馬車道をはじめ2軒の支店を出し、1875年頃まで写真師として第一線で活躍。その後は東京・浅草へ移り、写場背景画の制作をする傍ら、多くの日本画作品を制作、写真とは異なる手業の画面制作へ情熱を傾けることに。

もともとは画家を目指したが、初めてダゲレオタイプの写真を見た衝撃の大きさから写真を目指し、弟子も育て、子供たちもいっぱしの写真師に育て上げた後は、再び絵師の世界へと。なかなか波瀾万丈の人生だったようだ。

次いで、2階で開催中の

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登山家で、文筆家、更には山岳写真家の走りとも言える二人の貴重な作品展。大正や昭和初期に、これだけの作品を残せたこと自体驚異である。山岳写真愛好家には溜まらない魅力に溢れた展覧会だろう。会場の一角に展示してあった当時のカメラ(グラフレックス、及び六桜社製組立暗箱カメラ)は、ぶこつでいかつく、こんな大きな機材を抱えながらの撮影行、さぞや苦労の連続だったろう。

同じくチラシの概要から、以下抜粋。

戦前のわが国の登山史上もっとも著名な登山家の一人であり、黒部渓谷の地域探査や山岳紀行文で知られる冠松次郎と、北アルプスで最初期に山小屋経営を行い、山岳写真や槍ヶ岳を開山した播隆上人の研究でも知られる穂苅三寿雄を紹介する展覧会。

冠松次郎は、明治16(1883)年、現在の東京都文京区生まれ、明治35(1902)年頃から登山に目覚めた。明治42(1909)年、26歳で日本アルプスの踏査を開始、その後黒部の自然に魅せられ、大正7(1918)年、立山から黒部本流に足を踏み入れたのを皮切りに、秘境・黒部渓谷を舞台に数々のパイオニア・ワークを果たし、多くの写真と紀行を残し「黒部の主」の異名を取った。


穂苅三寿雄は明治24(1891)年、現在の長野県松本市に生まれ、幼い頃から山に親しみ、明治40(1907)年に初めて上高地に入り、大正3(1914)年には初めて槍ヶ岳に登頂。上高地槍ヶ岳一帯の登山道の整備を機に、山小屋建設を決意、大正6(1917)年に槍沢小屋を開設。この頃から独学で写真を学び、松本市内に写真館を開業して山岳絵はがきを販売するかたわら、山岳写真を撮り始め、地の利を活かした秀作を数多く撮影、大正末期の積雪期の作品など先駆的な業績を数多く残した。
多くの人びとを魅了してきた「黒部渓谷」と「北アルプス槍ヶ岳」。日本が世界に誇るこれらの美しい自然をテーマに、現存するオリジナル・プリントや多彩な資料で、初期日本山岳写真史にその名を刻む二人の偉業を検証。

更に、地階へ。

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この人ほど、世界中を虜にした戦場カメラマンはいないだろう。以下,公式HPからの抜粋。

東京富士美術館のコレクションを核に、戦場以外でキャパが同時代を生きる人々への共感や、友人たちへの思いから写したカットも数多く紹介。キャパの真骨頂ともいえるユーモアや生きる喜びが表れた、知られざる作品を中心に独自の作品構成を試みた。「ボブ」の愛称で親しまれた等身大のキャパを紹介するこれまでにはない機会であると同時に、今も多くの人を引きつけてやまない彼の人間性にも焦点を当てている。

作家で彼の友人の一人、ジョン・スタインベックは「キャパは多くの友人に愛されていたが、それ以上にいつも友人たちを愛していた」と書き残している。「伝説のカメラマン、キャパ」ではなく、挫折や失意を味わいながらも、あたかも好きだったギャンブルを楽しむように、40年の写真人生に命を賭けたボブの魅力満載。

男女を問わず愛されたキャラだったことは間違いなさそうだ。また家族思いで、母親宛に東京から出した誕生日を祝う内容の手紙も展示されていたが、これが東京発信で、便せんはバンコックのホテル・オリエンタルのもの。

ところで、戦場で撮影された数多くの作品中、最も有名な一枚が「崩れ落ちる兵士」だが、昨年、NHKスペシャルで取り上げられて検証されたのが、これは演習中のもので、しかも撮影したのは彼自身でなく、当時の恋人でカメラマンだったゲルダ・タローのものだった、という衝撃的な内容。科学的に立証されたから、多分それが真実なのだろうが、余り知りたくなかったのも事実だ。

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ゲルダ・タロー 1936年 同じくユダヤ人の、本名アンドレ・フリードマンハンガリー出身)⬇にロバート・キャパと名付けたのはこの人。更に二人で撮影した作品をこの名前で売り込もうという提案も。才能豊かな女性だったようだ。

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