ぐらっぱ亭の遊々素敵

2004年から、主に映画、音楽会、美術展、グルメなどをテーマに書いています。

「ダリダ〜あまい囁き〜」

180522 DALIDA 仏 127分 製作・脚本・監督:リサ・アスエロス(53歳、マリー・ラフォレの娘) 原作兼共同脚本のオルランドは、ダリダの弟。

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ダリダ(1933-1987)は、ピアフなどと異なり、日本では残念ながらほとんど知られていないため、平日の夕刻とは言え、映画館はガラガラ、我々夫婦以外、たったの二人という”惨状”。多分、はやばやと上映が打ち切られるだろう。よくできた映画だけに、もしそうなるとしたら、大変残念なことだ。

カイロ生まれのイタリア系フランス人という複雑なキャリア。両親ともにイタリア人、それも南部出身だけに、国籍はフランスでも、圧倒的にイタリア的で、フランス語も巻き舌で、これぞイタリア系フランス語の典型。南部出身だけに家族の絆が固く、彼女が情緒不安定な中で、何度も立ち上がれたのは家族、とりわけ弟オルランドの支えが大きかった。

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⬆︎10年契約が切れるのを待って、サンレモへ出る決意をしにプロデューサーの元を尋ねるダリダ(ズヴェーヴァ・アルヴィーティ)と弟のオルランドリッカルド・スカマルチョ

男運が悪く、というより、見る目がなかったとも言えるが、結婚相手も含め、つきあった男性の3人まで自殺している。どうも、最初の相手、大物プロデューサーだったリュシアン・モリス以外は、すべて超のつくイケメン揃い。ただ、例外なく、そういう連中には生活力がなく、結局、長続きがしない。

そんな中でイタリア人歌手、ルイージ・テンコとの仲も真剣であったが、不安定なものでしかなかった。これは多分にテンコの哲学的発想に遠因があるように劇中では描かれている。

テンコは日頃から、人の一生は死に向かって、一本のロープの上をバランスをとって歩いているようなものというかなり悲観的なハイデッガーの考えに傾倒していて、それを彼女に吹き込んでいるような場面が、後の展開の伏線に。

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⬆︎ルイージ・テンコはサンレモにチャオ・アモーレ・チャオをひっさげて登場するも入賞を逃す。この後、舞台にダリダが登場、同曲を熱唱し、テンコ以上の喝采を浴びる。この夜、テンコは自室でピストル自殺。

肝心のダリダの歌手としてのキャリアだが、いいプロデューサーに見出されたという幸運でしかないというのはやや言い過ぎか。彼の存在がなければ、彼女の成功はなかった。歌唱力は一定の評価ができるが、大衆から熱く支持された曲の実に大半は誰かが歌ってヒットさせた曲のカバーである。オリジナル曲でヒットした楽曲は10曲もなかった。

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⬆︎Je suis malade(”灰色の途”または”私は病んでいる” セルジュ・ラマ作曲)を涙ながらに歌うダリダ。彼女の心象風景だったのか。

本来気弱な彼女がそこまでのし上がってこれたのは、本人の努力というより強運だったという方が正確かも知れない。自作の楽曲はないし、そのような才能はなかったと思われる。そうしたことも含めて、徐々に追い詰められて、最後は鬱状態で、自死を選んだのだろう。享年54。一見派手な人生だっただけに、哀れを誘う幕切れであった。

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モンマルトル墓地にある、ちょっと派手めのダリダの墓。愚亭も6、7年前に訪れたことがある。モンマルトルは、ダリダ自身、一時生活していたこともあり、特別愛着を抱いていた地区だったろう。

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モンマルトルの一角、その名もPlace Dalida(地下鉄のマルク=コーランクール駅近く)にあるダリダの胸像。胸は皆さわっていくから、ピッカピカ。

本作でダリダを演じたズヴェーヴァ・アルヴィーティ、ほぼ無名のイタリア人女優(32)。モデル業のかたわら、女優を目指していて、たまたま顔や体つきが似ていたこともあり、大役を射止めた感じだ。演技力はよく分からないが、口パクを完全にモノにしていたことと、役が決まってから特訓したフランス語マスターの努力は認めてあげたい。ただ、この名前だが、とても覚えにくいし、改名を勧めたいところだ。

映画を見ながら思い出したのは、クロード・フランソワ。ダリダとほぼ同時代人だが、こちらは自作(マイ・ウェイの原曲となったComme d'habitudeなど)も多数あり、ダリダ以上の人気があった歌手。惜しくも39歳で自宅の浴室で感電死したが、やはり伝記的な映画「最後のマイウェイ」(原題は彼の愛称であった"Cloclo", )は、2013年、日本でも公開されたが、ほぼ同じ理由でまったくヒットしなかった。

#39 画像の一部はIMDbから