190927 137分とかなり長い。
オダギリ・ジョーの脚本・監督というところに興味しんしんで見に行った。へ〜、こいつって、こんな才能あるヤツだったんだ!というのが見終わった後のいつわらざるところ。おどろきました、はい、ダツボー!
あ、それと柄本 明の演技の凄さかなぁ〜。今、ちょうど朝日の朝刊で彼のことが連載されている最中で、タイムリーな公開となった。
さらに、撮影の素晴らしさ。見事な映像美はいつまでも余韻として心に残る。このクリストファー・ドイルというオーストラリア人、これまで香港映画や中国映画を随分撮っていて、愚亭も結構見ていたのに、うっかり気づかなかった。
そんなのんびりとした美しい自然美の中で繰り広げられるドラマ、前半はのーーんびりとした展開で、眠くはならなかったが、ただきれいだなぁーとスクリーンを眺めていたのだが、中断からがらりと様相を変え始めて、びっくりの終盤へと突入していく。
静と動、旧と新、過去と未来、生と死、まあ様々なものが川の流れに乗って描かれているわけで、日本人の死生観みたいなものにも触れているような気にさせられる。
ある日、船にぶつかったものが。よく見ると人間である。さっそく自分の小屋に運び込み介抱すると、年端もいかぬ少女。元気になったが、口も利かない。自分の名前も告げず、素性もさっぱり分からないまま、船頭の家に居つくことに。
この子がなにかの架け橋になっているような描かれ方をしていて、周囲にはない赤い衣装をまとい、強い印象を与えており、「シンドラーのリスト」の中に登場する唯一、色を持った少女の姿にダブる。
それにしても、贅沢なキャスティングである。ほとんどセリフも言わないほんの端役として登場する中には、蒼井優、浅野忠信、伊原 剛、草笛光子らが含まれる。
蛇足ながら、17世紀のイタリア人画家、カルロ・ドルチの「悲しみの聖母」[国立西洋美術館所蔵)が突然登場する。なにのアレゴリーか判然としないままだ。
ところで、今日は珍しい体験をした。開映してしばらくすると、何人かの客が席を立ちはじめた。画面には、出演予定のない柄本 佑(明の長男)が釣りをしているシーン。しばらくすると、ポルノまがいの映像が出始め、「あれ?!」と思っているとタイトルが「火口の二人」と!こりゃスクリーンを間違えたかとさすがに気づき、腰を浮かしかかったその時、スタッフが事情説明に登場。フィルム装填を間違えたのだ。長い映画人生で、初めての経験だった。ほどなくフィルムを差し替えて、無事本作の上映となったが、いやまあ人間がやることだから、こんなミスも起きないとは言えませんね。
#59 画像はALLCINEMA on lineから。