死海は丁度ヨルダンとイスラエルの国境(湖の真ん中)に横たわっているが、第5日目はヨルダン側の死海からヨルダン川を渡って、イスラエル側へ。やはりイスラエル入国はかなり面倒だ。かれこれ1時間半を費やすことになった。早朝に起きてテルアビブから駆けつけた日本人ガイドもせっかく早く着いていたのに、延々と待たされ、後々、何度も愚痴られる羽目に。国境越えの場面は撮影禁止のため、一枚もない。自動小銃を抱えた私服の男や女がその辺にいて、嫌でも緊張を強いられることになる。
国境で手間取ったため、予定を変えて、すぐそばにあるジェリコは後回しにして、ランチも予定しているマサダへ先に行くことになった。⬆は群生するナツメヤシ。土産にこの実を買ったが、喜ばれるかどうか自信がない。ほどよい甘さで、私はおいしいと思ったが。
死海をイスラエル側(西側)から眺める。対岸に見える小高い丘は前日に訪ねたネボ山。
50分ほど走ると突如目の前に娥娥とした岩山が出現。これがマサダの要塞である。紀元前にヘロデ大王が宮殿を造ったところだが、ここが有名になったのは紀元70年、ローマ軍に追いつめられたユダヤ人が最後に立てこもり、 4ヶ月に渡って果敢に戦い、最後は壮絶な自刃を遂げたことだ。かんかん照りの中、そんな死闘が繰り広げられたことなど、想像しながら小一時間歩き回って、さすがに疲労困憊である。
テンガロンハットのおっさん(と言っても私と同い年)がテルアヴィブから駆けつけた日本人ガイド。イスラエル在住40年を越えるから、さすがに詳しい。女性陣は目深な帽子、マスク、サングラス、それに日傘と完全武装。
モザイクの床はあちこちにまだはっきりと残っている。紀元70年9月にローマにマサダを明け渡したユダヤ人は、以後2000年に渡って世界をさまようことに。いわば離散(ディアスポラ)の始まりがこのマサダであることを考えると、ユダヤ人にとっては特別な意味合いを持つ場所に違いない。
いわゆる死海文書はクムランで見つかったものを指すらしいが、ここでもこのような文書が見つかっている。
岩山の上は驚くほどだだっ広い。巨大な倉庫には水や果物他糧食が豊富に蓄えられ、千人が4年以上篭城出来るほどだったという。
当時の建築物の模様を示す模型が要所に設置されていて、これを見ながら説明を聞くと分かり易い。この模型は珍しいことに金属で出来ている。
これを見ると、相当峻険で、攻めるローマ軍1万人も苦労したであろう。
空腹を感じ始めた頃、再びケーブルカーに。10分ほどで下界へと。
死海と手前のオアシスを見ながら昼食。ビールがうまい!
元来た道を戻って、再び死海沿いに走らせること小一時間で、世界最古の町、ジェリコ 。何せ紀元前7800年頃から人が住んでいたというから、3000年の歴史を持つピラミッドなど物の数ではない。ジェリコと言えばジョシュアである。ジェリコの戦いを歌った黒人霊歌を、カルテットで歌っていたので、その歌詞でジェリコの戦いのあらましは知っていたことになるが、実際にその地を踏んで、まさに感無量。
ジェリコの町の概要を説明する現地ガイドのバラさん。
ジェリコの壁の一部。触るとパラパラと崩れそうになる。本来近づいてはいけないのだが、止むに止まれず・・・
これも壁の一部。モーゼの後継者ジョシュアがカナンの地で最初に攻め込んだ町がジェリコ。旧約聖書には、城壁の周りをジョシュア軍が7回ラッパを吹き鳴らしながら回ると、壁がガラガラと崩れ落ちたとある。
ザァカイの樹。キリストが来るというので、背の低いザァカイがこの樹に登ってキリストを見ると、近寄ったキリストからお前の家に行くからと言われて、弟子に加わったとされる。⬇
バスの駐車場のそばの土産店。果物やナッツ類が豊富に並んでいた。