ぐらっぱ亭の遊々素敵

2004年から、主に映画、音楽会、美術展、グルメなどをテーマに書いています。

歌劇「オテッロ」@新国立劇場中劇場(初台)

170215

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素晴らしい舞台だった!もちろん応援している青栁素晴オテッロを聴きたくてチケットを購入していた。

さて、タイトルロールの青栁だが、出だしは必ずしも万全ではなかったかも知れない。この役、何しろ登場するやいなや、いきなり”Esultate! ・・・”「喜べ、敵はすべて海の藻屑となったぞ!」という詠唱が待ち構えているから、大変なのだ。だが、そこはベテラン、徐々にギアを上げて、終わってみれば、強く心に残る見事なオテッロになっていたのはさすがだ。

他に、オテッロに勝るとも劣らない重要な役のイアーゴ、どす黒い陰謀をめぐらす邪悪の象徴のような難しい役どころを、バリトン須藤慎吾が立派に勤め上げた。特に第2幕の「イアーゴの信条(クレード)」のド迫力は、オテッロの勢いを凌ぐほど圧倒的スケールの熱唱だった。派手な金管の伴奏を従えての歌唱は、さぞ歌っている方も心地よかっただろう。この演目、オケの効果的な伴奏で、バリトンのアリアとしては「リゴレット」の「悪魔め、鬼め!」を凌ぐほどのインパクトをもたらすように思える。

この実力伯仲の二人が、第2幕の終わりで歌う凄みのある「復讐の二重唱」には、まさに圧倒された。同じヴェルディの「ドン・カルロ」の二重唱「我らの胸に友情を」を彷彿とさせる。

第4幕の聴きどころは、なんと言ってもPiangea cantandoと抑揚のある旋律で始まる「柳の歌」だろう。フィオーレ・オペラ協会代表で、合唱団の団長でもあるソプラノの西 正子がここぞとばかり美声を響かせた。

冒頭、イングリッシュホルンの悲しい音色に、バスーンクラリネットが和し、哀調のある旋律を巧みに構成して行くところは、ゾクッとする。

デズデーモナが幼い頃に、母親の召使いで、男に捨てられたバルバラが、この歌を歌いながら死んだのよと侍女のエミリアに、問わず語りで説明するような内容を字幕で追いながら、なぜかフェデリコ・フェッリーニの代表作の一つ「道」(La Strada)のラストシーンを思い出していた。

フィオーレ管弦楽団・合唱団とも、Bravissimiの大熱演だったことも付け加えねばならないだろう。特に合唱団は、オテッロをやるにしては、人数が不足気味、とりわけ男性陣の苦労は並大抵ではなかったろう。最近合唱機会が増えた愚亭にはよく分かる。

そう言えば、フィオーレ・オペラ、5年前の「椿姫」を見ていることを思い出した。

#4(文中敬称略)

「ティツィアーノとヴェネツィア派展」@東京都美術館

170215 午後はヴェネツィア派絵画を観、夜はヴェネツィアに因縁のあるオペラ「オテッロ」を観るという具合で、図らずも自分にとってはヴェネシアン・デーとなった。

例によって、高齢者無料日の特権をフル活用して、午後の遅い時間を狙って都美術館へ。

そういえば、昨年、夏から秋にかけて国立新美術館で開催された「

grappatei.hatenablog.com

」という展覧会に行ったのを思い出し、「半年後に、東京で再びヴェネツィア派かよ!」という気持ちがないわけではなかったが、申し訳ないが国立新美術館のがすっかり霞んでしまうほど、今回のヴェネツィア派絵画(と言ってもティツィアーノがほとんどだが)のレベルが抜きん出ていたと思わざるを得ない。それほど、すっごい作品が揃ったということだ。

ティツィアーノ・ヴェッチェッリオ(1490-1576)は、当時としては、結構長生きした方だろう。86歳ということで、ちょっと前のミケランジェロが89歳、さらに前のダ・ヴィンチが67歳ということで、いずれも、長命を保ってくれたおかげで、後世、我々はこうして多くの傑作を楽しむことができるわけだ。

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まずは、⬆︎これ!あまりにも知られた傑作「ダナエ」(1544-46)だが、日本初来日だったとは!自分の目で観たのは、50年以上も前のナポリはカポディモンテ美術館だったのか。もはや記憶が定かではない。この作品が見られるだけでも、本展は価値がある。ゼウスが、金貨に化けてダナエと交わるという微妙な瞬間を捉えた絵柄。右の天使が「まじかよ!」とばかりに見上げている表情もいいが、観念したかのようにきっと目を見開き、口元を結んだダナエがあまりにも官能的だ。

ついで、この「フローラ」(1515年頃)は最も若い頃の代表作。ウッフィーツィ美術館蔵。

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これまた傑作中の傑作。衣紋の描き方一つとっても、どんだけ凄いワザ持ってんのよ、と思わせる。さらには、髪の毛の描き方、特に左肩にかかる髪の繊細なタッチにはため息だ。聡明そうな表情が、見るものに強い印象を与えないではおかない。

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同じくティツィアーノで、1543年の「教皇パウルス3世」やはりナポリのカポディモンテ美術館蔵。この年老いた教皇の、衰えぬ眼光、顔と両手の皮膚の質感、衣装のえも言われぬ色調、椅子の手すりの同じく色調、質感、どこを見ても超一級品であることが分かってしまう。

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1567年制作「マグダラのマリア」@カポディモンテ美術館 涙に濡れた瞳を大きく開いたマグダラのマリアの思いつめた表情、モダンな柄の衣装も印象に残る。

ティツィアーノの前には、ヤコポ・ティントレットも、パオロ・ヴェロネーゼもいささか見劣りしてしまうのだが、ヴェロネーゼのこの作品は素晴らしい!

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聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者聖ヨハネ」1565  ウッフィーツィ美術館蔵 左側の聖バラバラの黄金の衣装の質感たっぷりの描き方には驚嘆するしかない。

ともかく、これは必見の展覧会!上の5点だけ見ても充分上野まで行く価値がある。

それにしても、これらほとんどの傑作が本家のヴェネツィアにはない、というのはヴェネツィア人には辛いところだろう。

「海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~」

170214 2月は殊の外忙しく、2週間ぶりに見た作品。原題:FUOCOAMMAREシチリア方言、標準語ならFUOCA AL MARE. 直訳では海の火。作中、サムエレ少年の祖母が語る戦時中の話で、爆撃で海が赤く染まったことから)伊仏合作 114分 監督・撮影・製作:ジャンフランコ・ロージ(「ローマ環状線、巡りゆく人生たち」2013年、イタリア映画祭出品作。ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞作品。 その年に来日して、トークショーを聞く機会があった。60歳)

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物語の舞台は、イタリア最南端の島、ランペドゥーザ島。10年近く前から、アフリカ、中東方面からの難民が辿り着くヨーロッパ最初の地点として、ニュースに頻繁に登場することになったので、聞いたことのある人は少なくない筈。それがなければ、小舟が浮いているように見える、やたら透明度の高い海でよく知られた観光スポット。⬇︎

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しかし、本作に登場する島は季節の違いもあり、どんよりした空の下、何の変哲もない島にしか見えない。

冒頭、この島で昔から暮らしている一家の日常風景を、淡々と描き出す。とりわけ12歳の少年サムエレを中心に描き続ける。友達と、パチンコ(スリングショット)遊びに興じ、自動小銃を撃つ真似を繰り返す。⬇︎

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この少年、サムエレ、弱視を指摘されて島のドクターの診断を受ける場面があるが、手振り、身振り、話し方が大人のイタリア男、そのもので、何か微笑ましい。

宗教色の濃い、古くからの生活をカメラが丹念に追う一方、まったく異なる姿がこの島にはある。それが押し寄せる難民との絶え間ない”戦い”である。島民、約6,000人に対して、年間数万人の難民がこの島を目指すから、対応が間に合わないのだ。

その難民船を長い時間かけてロージ監督は克明に撮影していく。船の一番上、デッキの上部にいるのは”一等船客”、ついで屋根の下に”二等船客”、そして最も悲惨な”三等船客”は、船底となる。一瞬、カメラがその実態を映し出すが、ほぼ正視に耐えない。陽が入らず、空気も澱んだままで、数週間は、まさに地獄絵図とのまま!

それでも無事、救出される人たちはこの上なくラッキーである。2、3割は海で命を落とし、遺体で辿り着くか、海に投げ出されるか。地上の楽園のような小島で、こんな光景が繰り広げられていることを、世界はほとんど知らないのだ。

難民問題を抱えている島と、昔ながらの漁法や、観光で生計を立てている平穏な島、まったく異なる二つの顔を知る唯一の存在として描かれているのが、村のドクターである。サムエレ少年の目を心配しながら、一方では運ばれてくる瀕死の難民の診察にも当たる。

ローマ環状線・・・」でも見せたロージ監督のドキュメンタリー技法が光る作品がまた一つ。

#7 画像は、IMdbから。

「沈黙 - サイレンス」

170131 原題:SILENCE  米・伊・墨合作 162分はかなり長い!(原作が日本で、舞台も日本、出演者も多くの日本人が登場するが、日本はキャスト以外、ほぼ関与していないという、やや珍しい作品)原作:遠藤周作、名匠、イタリア系アメリカ人のMartin Scorseseが30年近く温めていたそうだ。やはり、興味はあっても、キリシタンが潜む村にポルトガル人宣教師が乗り込んでくるという、西欧人にはおよそ特殊な世界だけに、映画化実現にそれだけ時間がかかるのも無理はないだろう。尤も、1971年に篠田正浩が監督した作品がある。脚本は原作者の遠藤周作自身も加わっている。が、あまり話題にはならなかったようだ。

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心の内面をかなり仔細に紙面を割いている原作だけに、映像化には苦労して当然だろう。したがって、原作とはかなり異なった趣になっているのはやむを得ないと思う。原作の素晴らしい出来は出来として、映画としても十分素晴らしいと思う。

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日本に布教に行ったものの棄教したと伝えられるフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)の存在をどうしても確認せざるを得ない、弟子のロドリーゴアンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)が、自称キリシタンのキチジロー(窪塚洋介)の手引きで、隠れ切支丹の潜む長崎近くの村にたどり着くところから物語は始まる。

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ほぼ全容を把握している長崎奉行井上筑後守(イッセー尾形)の硬軟使い分ける、巧みで狡猾極まる懐柔策に次第に追い詰められていく切支丹たち、一方正視に耐えぬ凄惨な拷問を見せつけられるパードレたちも、今自分たちが何をなすべきか、内なる神に必死で問うが、沈黙したまま。

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今は日本人になりきってしまった師、フェレイラにやっと会えたというのに・・・・ロドリーゴも結局は、フェレイラの辿った道を辿ることに。

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ポルトガル人という設定だが、ポルトガル語は一言も出てこない。ハリウッド製だから、ま、仕方ないだろうが、いつものように、リアリティーにかけることは否めない。祈りは全てラテン語である。

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⬆︎加瀬亮もチョイ役。(この後、見せしめに、首を切り落とされてしまう)他に青木崇高もほんの一瞬。変わったところでは、元プロレスラーの高山善廣も出てくる。

全編台湾で撮影したそうだ。それも72日間というから、事前の調査・準備がどれほどのものだったか、先日NHKで放映されたスコセッシ監督の談話にもそれがよく伺える。

物語のメインは、やはり所期の目的を貫かんとするロドリーゴと、何度も踏み絵を踏み、棄教したと見せかけてはロドリーゴに告解を求め、挙げ句の果てに、ユダよろしく銀300枚で幕府側にロドリーゴを売り渡してしまうキチジローのやりとりだろう。その意味でこの二人が主役と言えるかも知れない。

それにしても、隠れキリシタンとは、まことに不思議な存在であり、果たしてこの作品、海外でどのような評価を受けるか興味が尽きない。

フェレイラ役、当初はダニエル・デイ=ルイスが演じる予定だったのが、彼が「リンカーン」に決まり、逆に当初リンカーンを予定していたリーアム・ニーソンがフェレイラに回ったとか。完全に入れ替わってしまったというわけだ。

他に、ベニシオ・デル・トーロ、ガエル・ガルシア・ベナマルが予定されていた宣教師も、アンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバーに変更され、企画を暖める期間が長いだけにこんなことが起きているのだろう。アダム・ドライバーは本作出演が決まると20キロ以上体重を落としたらしい。

ところで、「沈黙 - サイレンス」という邦題だが、1971年の篠田作品が「沈黙 SILENCE」で、意識的にこうしてあるようだ。日本語の沈黙と英語のサイレンスはイコールではない。沈黙は、ここでは神についてのことであり、サイレンスにはもう少し広い意味での自然の静寂というような感じがする。

撮影中、スコセッシ監督は終始ピリピリしていて、少しでも物音を立てようものなら怒鳴りまくっていたらしい。映画では、音楽らしい音楽は流れいない。地元の当時の歌だけ。エンドロールも虫の音から、波の音へと変化するが、ほぼサイレント映画のごとし。

#6 画像はIMdbから。

黒い薔薇歌劇団による「魔笛」

170128

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一昨年の公演がすこぶる好評で、今回再演となったのは、まことに喜ばしい。キャスト陣はほぼ前回と同じなのだが、パミーナが砂川涼子→嘉目真木子、パパゲーノが宮本益光→近藤 圭、ナレーションが長谷川初範→宮本益光、フルーティストが難波 薫→林 理紗という変更があった程度。

今回も当然ながら、宮本益光の主宰・構成で、ナレーションも自身で務めることにしたため、パパゲーノを近藤 圭に、ということになったのだろう。やはり、この方が全体にしっくり行ったと思う。

それと前回公演との最大の違いは、ピアノ伴奏からオケに格上げされたことだ。このオケが素晴らしい響きを聞かせてくれた。40名弱とこじんまりとした編成で、管と弦のバランスの良さに聞き惚れた。

必然的に歌手たちの活躍スペースは狭まったのだが、ほとんど違和感を覚えなかった。奥の一段高くなったスペースをうまく紗幕を使って活用していた工夫も大いに活きていたように感じた。

この「魔笛」、文字どおり魔、つまり舞台上のフルートに人格を持たせ、天使のごとく翼を背負わせて、歌手たちに混じって演奏・演技をさせるから、結構大役なのだ。

昨年、一人で伴奏をやりきった名手石野真穂、今回の出番はグロッケンシュピールだけだったので、若干手持ち無沙汰だったかも知れない。

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大塚博章(まことに口幅ったいが、昨年末、第九で、共演?したばかり)のザラストロはさすがの演唱で、その超低音の響きには圧倒されまくり。塩田美奈子、夜女としての存在感は依然健在!例のコロラトゥーラの最中に、ペンパイナップルアップルペンをやらせたのには、びっくり!

侍女3人は、これ以上ないほどパワフルな組み合わせで、しびれました!前回の砂川涼子にも勝るとも劣らない歌声を披露したのは嘉目真木子。なんとも華やかな舞台姿にはブラーヴァ!

こうやって上げて行ったらきりがないのだが、こんな公演が見られるありがたさ、幸せ感に浸った2時間半だった。

このまま終わらせるのは、あまりにもったいないので、3度目を是非とも考えて欲しい。

#3 (文中、敬称略)