ぐらっぱ亭の遊々素敵

2004年から、主に映画、音楽会、美術展、グルメなどをテーマに書いています。

呑川最下流付近まで散策

210125 10年前なら、我が家から徒歩で往復することもできたろうが・・・。まずは蒲田までバス。そこから呑川沿いに下流へ。両岸に人が歩ける道がある限りは、そこを通るが、そうは行かない場所も結構ある。右岸、左岸を繰り返して、やっと河口付近へ。

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えびす橋付近では護岸耐震補強工事が行われている。もう河口まではすぐ。

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歩き始めてから、矢印の先端でバスに乗るまで5kmほど。

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先端付近から羽田空港方向。右は海老取川河口。

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中央が呑川河口。左上方向へ海老取川。2kmしかないが、1級河川。左、滑走路の先端が見える。

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可動橋が見える。

大田区の突端とも言える場所。こんなところに大森1中がある。区内に全部で大森のつく中学が7校。我が家付近には4中と3中がある。

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歩き疲れた頃、大森寺(日蓮宗)へ。ちょうどバス停前。

ここは尾崎士郎も通ったという鉱泉があった界隈。明治34年の石碑が大森寺の境内に。

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森ケ崎鉱泉跡がここらへんにあったことを告げる案内文。

ウィキペディアには以下の記載。

明治中期に発見された鉱泉で、一時期は東京近郊の保養地として栄えた。太平洋戦争中に廃業した。

鉱泉を記念する石碑が当寺に建てられている。石碑には、当時日本亡命中の朝鮮国大韓帝国)の政治家陸鐘允による漢文の詩が刻まれている。

さらに、手元の大田区発行の資料によれば、明治32年鉱泉が発見されると明治35年頃に有志により最初の鉱泉旅館「光遊館」が開かれ、次第に来泊者が増え、新たな旅館も次々にオープン、数年後には森ケ崎鉱泉街を形成する勢いとなった。大正期には旅館、料理屋が二十数軒立ち並ぶ繁盛ぶりで、当時活躍した文士(尾崎士郎もその一人)や政財界人が多く来遊したという。しかし、太平洋戦争末期には軍需工場宿舎に転用、終戦後は戦災者などの寮となるなど、次第に衰退したようだ。