210806 新聞の広告を見て、さっそくアマゾンで購入。
風船爆弾というのは聞いたことがありまして、日本陸軍の専門用語では「ふ号兵器」として、大真面目に研究・開発されたそうです。なにせ和紙とこんにゃくで製造するので、他の軍需品と競合しないからと1万発ほども実際に飛ばし、ジェット気流に乗せて米本土を狙ったようです。
そのうち、実際に米本土に到達したのはわずかに300弱で、なかにはミシガン州まで到達したそうです。ただし、戦果はほぼゼロ。停電を起こしたり、不発弾に触れた民間人が爆死した程度でしたが、心理的な効果はそれなりにあったとか。
こうした戦術まで案出したきっかけは海軍が行った米本土爆撃だったわけです。
結構大々的に報道していますね。昭和17年9月15日の記事らしいです。そしてこれを史上初めて敢行したのが、本書の著者藤田信雄(当時は潜水艦イ25の飛行長)なのです。
同年4月に米軍のドゥーリットル爆撃隊で、実に元寇以来という神州を侵された日本、その恥辱をはらすべく、一矢報いたということですが、森の木が裂けたとか、多少火事が出た程度で、ほぼ軽微な損害に終わったとは言え、これまた心理的な効果を狙ったものでした。
こうして、この時は2度に渡ってオレゴン州の海岸近くのエミリー山に計4発の爆弾を落としたそうです。これがどれほどの壮挙だったかは、潜水艦から発艦した零式小型水上偵察機だったという事実です。
潜水艦に小型機を搭載すること自体、珍しいいことではないとしても、あの狭いところに飛行機をバラして格納、10分もかからずにそれを組み立て、廊下ほどしかない場所をカタパルトで飛ばす技がいかに大変だったか。さらにというか、しかもというか、80kg近い爆弾を積むわけですから重量がかかり、潜水艦の甲板などさして高くないので、発艦した途端、ガクンと一度機体が沈み込むのは避けられません。もし多少でも波が荒いと、一巻の終わりということに。
こんなかるわざのようなことを2度も成功させたこと自体がまず奇跡としかいいようがありません。アイディアも素晴らしければ、技も見事、さらに運も味方につけて初めて遂行できたことであり、これを壮挙と呼ばずして何と呼ぶべきか?
この後、著者は実に数奇な運命を辿ることになります。これだけのことを成し遂げたわけですから、海軍としてもそれに報いるのは当然で、一旦、この壮挙のひと月後、日本に呼び戻されます。途中、たまたま遭遇したソ連の潜水艦を米軍のものと誤認して撃沈するというおまけ付きで。
この後、イ号25はなんとバヌアツ近くで米駆逐艦に攻撃され、海の藻屑と消えてしまいます。この辺り、強運なのですねぇ。その後、特攻隊の教官などをやり、自身も特攻に出る覚悟を決めた時に終戦を迎えます。
そして、上にあるようなことが起きるわけです。米側は、有史(と言ってもたかだか250年もありませんが)初めて米本土を爆撃したのは誰かということで、日本側に調査依頼が来ていたらしく、当時の官房長官であった大平正芳から面会を求められ、いずれしかるべき筋から連絡があるが、驚かないようにと。また渡米して万一身になにかふりかかるとしても国としては対応しかねるので、と含められたそうです。
はたせるかな、しばらくすると外務省経由、現地ブルッキング市から家族そろって招待したいという話が。半信半疑ですよね、もちろん。なにせ先方にすれば攻撃してきた相手、つまり敵ですから、現地入りして何をされるか分かったもんじゃない。でも、熟考の末、この招待を受けることにしたわけです。びっくりするほどの大歓迎を受けたのは読者の予想通り。合衆国大統領からもメッセージと国旗を授与されるという、考えられ得る最高の栄誉を受けたことになります。
本書は藤田信雄が遺した膨大な日記類を長女である順子さんがまとめ、出版に漕ぎ着けたものです。ご本人は平成9年、85歳で亡くなられました。