160705 撮影・監督:森達也
早くも、”そう言えば、そんな事件、あったな”と思えるほど、急速に記憶から遠ざかろうとしているが、まだ3年も経っていない。愚亭もまんまと騙された口。わざわざミューザ川崎へ、大友直人が振る東京交響楽団の演奏で、彼の作品を聞きに行ったし、会場に来ていた本人がマエストロとハグする姿も目の当たりにし、大いに感動したものだった。ついでに自伝的著書まで買ってしまった。それだけに、この事件は衝撃だった。
話題になった記者会見後、一切のコンタクトを絶ってしまった佐村河内を、森達也が根気よく口説き、自宅にカメラを持ち込み、生活に密着して、109分の映画作品に仕立ててしまった。
テレビ局や海外メディアの取材を受ける姿も克明に記録されている。驚くのは、妻カオルの存在である。”通訳”に徹するのだが、自分のことを質問されても、自らの感情を挟むことなく一貫して通訳することこそが自分の立ち位置と心得ているらしいことで、彼女の存在なしにはこの作品はなかったろう。
それで、やっと分かることは、彼の難聴は、世間には理解されづらい種類のもので、聞こえている(理解している)部分とそうでない、つまり奥さんの手話でしか理解できない部分の境界線が極めてわかりにくいことだ。それゆえにこそ、世間から誤解され、糾弾もされたようで、ある意味、被害者とも言える。
”事件”のもう一方の当事者である新垣 隆が、その後、脚光を浴び続け、メディアでの露出ぶりもハンパでないことを考えれば、何かやりきれなさを感じてしまう。
海外からの取材班が来宅して、自分で音源が作れる何かエビデンスのようなものは?と聞かれ、1分も黙り込んでしまう佐村河内。やっと口から出た答えが「前の家が狭かったから、ピアノも置けなかった」というようなことをつぶやくと、「やはりそうだったのか」と思わせる。
ところが、ラスト12分に、そうした疑念を打ち払うようなシーンが登場、絶句。
全編を通して、飼い猫が合間合間に登場するのだが、これが絶妙なタイミング、絶妙な表情で、「我輩は猫である」かのごとく、自分だけが真実を知っているかのようなドヤ顔は、効果絶大。
それにしても、メディア、特にテレビというのは、今更ながら、視聴率を取ることこそが至上命令で、裏にどれだけの悲劇や犠牲があろうが知ったこっちゃないというスタンスを貫いていると思わせる。まあ番組にもよるだろうが、見る側にはきちんと真偽を見極める責任もあるだろうし、余程の見識と覚悟が必要だろうと改めて思った次第。
#55 画像は作品の公式サイトから。