ぐらっぱ亭の遊々素敵

2004年から、主に映画、音楽会、美術展、グルメなどをテーマに書いています。

「メリー・ウィドウ」@日生劇場

201127

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ほぼ1年ぶりにこういう本格的なオペラ・オペレッタの生の舞台を鑑賞。やはり生の迫力というか、訴えるものがぜんぜん違う、当然だけど。今更ながら、そこに大いに感動して早くコロナ禍が終息することを改めて強く願った次第。

我が家は肺炎になりやすい家内が嫌がるので、これまでせっかく入手したチケットを友人・知人に進呈してきたけど、この公演はずいぶん前に予約し、それなりに高額で席も悪くなかったので今回ばかりは譲歩することなく日比谷まで足を運んだ。都営線に乗るのもほんとに久しぶりだ。日比谷駅構内のコンコースもずーっと工事中だったものがきれいに完成していた。

席は前後左右を空けてあり、ぎりぎりまでドアを開け放ち、マスク着用はもとより、トイレ前の行列の間隔もスタッフがチェック、終演後の客の退席も三密を避けるためブロック毎に時間差を設けるなど、万全の体制。休憩(2回)中も、ロビーをうろつくこともせず、自席でプログラムにじっくり目を通して過ごした。

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観たのは27日なので、与那城 ・嘉目組。

さて、シュトラウスの「こうもり」とほぼ人気を二分する観のあるレハールの「メリー・ウィドウ」、楽しい旋律がぶっ通しで登場するから正味2時間弱をたっぷりと楽しめるのだ。しかも、今回はアリアも含めすべて日本語、さらに歌唱部分は字幕まで出してくれるから、まことにありがたい。

やはり主役であるハンナとダニロの出来に負うところが大きいのは当然だが、嘉目真木子与那城 敬という絶妙の組み合わせには大、大満足。歌唱もさることながら、見栄えも言うことなし。例の「くちびるは語らねど」の旋律でゾクっとし、2人の踊るシーンでは柄にもなくウルウル。

もう一つのカップル、ヴァランシエンヌ箕浦綾乃)とカミーユ高田正人)も素敵だった。箕浦は初めて聴いたが、安定した歌唱で無難にこなしたと思う。ダチョンはもう何十回も観て聴いているから、今更のコメントなし。とにかくカッコいいカミーユで、我が姉が夢中になるのも宜なるかな。でも、四阿(あずまや)をクロークにしちゃうのはなぁ、ちょっと興醒め。尤もこれは演出の問題ではあるけど。

強いてあげれば、「グリゼットの歌」のシーン、最も盛り上がる場面の一つだが、もう少し泥臭くてもいいような気も。ちょっと上品すぎたかなぁ。舞台下手で見物しているボグダノビッチ、プリチッチュ、もはや大御所の岸本 力志村文彦だから半端ない盛り上がりぶりで、それを観ているのもまた愉快極まりなかった。さらに「天国と地獄」のカンカンで最高潮!いやあ楽しかった。もちろん、小柄できびきびした沖澤のどかの指揮ぶりも東京交響楽団の演奏も、言うことなし!

眞鍋卓嗣(まなべ・たかし)とおっしゃる演出家は俳優座所属で、オペラの演出はあまりやっていないように書かれているけど、なかなかどうして、見事な演出だったと思う。舞台装置がまたすばらしいもので、プログラムによれば、これをまだお若い伊藤雅子が担当したようで、実に大したものである。衣装や照明、ダンス・シーンの振り付け、合唱なども巧みに計算され、総合的に堂々たる上質の舞台を創り上げていた。満員で上演できたらと思わずにはいられなかった。それにつけても、にっくきコロナよ!

蛇足ながらこのオペレッタ、原語ではDie Lustige Witweだが、なぜか英語のメリー・ウィドウで日本には定着している。単に、この作品の発表後、日本に来る前に英語圏、とくにアメリカで大成功を収めたことが理由のようである。

それを言うなら「椿姫」に触れないわけには行かない。La Traviata(道を踏み外した女)がなぜ「椿姫」となって日本に定着したか。相当古い話で明治時代にすでにこう呼ばれ始めていたという。アレクサンドル・デュマ・フィスの原作、La Dame aux Camérias(椿姫)由来であるのは間違いないが、オペラになって、ヴィオレッタ(すみれ)が主人公である以上、もはや椿姫ではおかしいのだが、そのまんまという次第。二期会では、今後リゴレットやイル・トロバトーレ同様、ラ・トラヴィアータと言語そのままとするようだが、ま、当然というか遅きに失した感すらある。