251020 もう海外旅行はないものと決め込んでいたのですが・・・、たまたまJTBの旅物語のパンフレットをなにげなく眺めていたら・・・そう言えば、まだ「たびたび」(JTBの積立旅行バンク)にいくばくか残っているのを思い出し、急に決めました。
「たびたび」残金を早く使っちまわないと思いつつ、どんどん月日が流れ、おかみさんはもう体力が落ちて行かないと言い出したものですから、今年中に1人でもいいから使い切ろうと、5月には未到の五島列島へ。それでも、まだ残っていたので、あれこれ迷っている時に、↓これですよ!

中国にはこれまで出張も含めて4回行っているのですが、肝心の東北地方にはまったく縁がなく、諦めていたのですが、やっとチャンスが。
ちなみに、うちの一家は水墨画家の祖父が画業を磨こうと、中国へ。大連を中心に活動して、生活が安定したので、岐阜大垣から家族を呼び寄せ、1920年代から30年代にかけて、主として大連で暮らしたようです。
父は超エリート国策会社である満鉄へ就職。鉄道だけでなく港湾施設、病院、橋梁、ありとあらゆるインフラを一手に抑えていた超巨大企業でした。のみならず、満鉄調査部は、今のCIAを凌ぐほどの当時としては世界トップクラスの調査・諜報・情報収集力を備えていたと聞いています。
そのおかげで、暮らし向きはかなり豊かだったようです。満鉄幹部社宅など一部がまだ市心に残っていて、今回の観光コースに含まれていました。

添乗員はなく、現地でガイドが全行程世話をするので、お互い名前はおろか顔も知らないまま到着。そこで、一行22名が初顔合わせです。
⬆︎空港から最初に向かったのがここ。古い大連港です。今はクルーズ船の発着に使われているようです。

市内はもちろん郊外までも超がつく高層ビルが林立していて、壮観!地震がないのが羨ましい!

次に向かったのが大連ヴェニスと言われるこの地区。

観光シーズンが終わっているので閑散としていますが、夏にはかなりの賑わいが見られるようです。ゴンドラが係留されていました。

宿泊先は市心のニッコーホテル、我々がアサインされたのは9階でしたが、30階を超える、一応高層ホテルで、施設・アメニティ・サービス・食事・ロケーション、いずれも問題ありませんでした。⬆︎我が部屋からの眺めです。

ガイドは地元観光会社日本部副部長の曽 偉(Zeng Wei)さん。大連外国語大学で日本語を学び、インバウンド・アウトバウンドでしょちゅう日本にも来ているというベテラン。正確な日本語だし、マナーもよく好評でした。
2日目はあいにく天気は下り坂。しかも寒い!ダウンを持ってきてセーカイでした。東京の11月中旬という感じです。

まずはここ。事前情報なしで行ったのですが、まさに旅順の故宮博物館という風情で、すごい収集量には圧倒されました。それも超一級品ばかりで、小一時間では、まったく足りませんでした。折から修学旅行と思しき高校生が多数押しかけて、ゆっくり鑑賞できなかったのがちょっとねぇ・・・。
以下、陶器類を中心に。説明がないのが残念至極!

有名な唐三彩の馬。我が自室にも、愚亭が午年ゆえ、このレプリカが飾ってあります。





色といい、模様といい・・・ため息の連続


こちらは翡翠。いずれもまさにため息ものばかりです。




こちらは象牙細工ですね。


関東軍の本部建物。現在は使われていません。保存状態はかなりいいようです。

「中国を侵略した日本軍関東軍司令部跡地」とありますね。これが旅順博物館の対面にあります。日本人にはあまり居心地、よくないですね。

背景はド派手な色調の旅順駅です。

粛親王(愛新覚羅善耆)は男装の麗人、川島芳子の実父。辛亥革命後日本に亡命。同志である日本人の川島浪速と義兄弟となり、満州独立運動に奔走。娘を浪速の幼女にした。旅順で没しました。そのお墓に立ち寄りました。

ついに来ましたよ、203高地へ。海抜203メートル、ここが日露戦争最大の激戦地。その昔、「明治天皇と日露大戦争」という新東宝の映画で、激戦の様子を知り、その後、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で、さらに詳細に状況を知った次第。


日本軍を苦しめたロシア側の大砲



音読みに漢字を当てはめた乃木将軍の真筆、爾霊山慰霊碑

2度の総攻撃にも失敗、剛をにやした児玉源太郎が乃木から指揮権を一時的に奪い、現地に運んだ巨大榴弾砲のレプリカ。砲弾は280ミリ!!


3日目は市内中心にある中山広場へ。打って変わって今日は快晴、でも寒い!

今回、最も楽しみにしていた旧大和ホテル(現在は大連賓館と改称してますが、現役!)は、なんと工事中で、内部は見られない!がっかりです。祖父はここの大宴会場に6面の大壁画を水墨画で完成させていますが、ソ連軍兵士が剥ぎ取って、散逸。これは痛恨です。
我が一族のルーツを、はとこの仁林俊郎氏が編纂してくれ、その中に、その辺りの情報がありますので、以下に一部を転載します。

⬆︎祖父の繁三郎、雅号は聾仙(片耳が幼少時の水難事故で聞こえなかったゆえ)

背景にくだんの水墨画の一部が見えています。



満鉄本社ビルの石碑の前だけは敬意を表してか駐車禁止だそうです。ここ以外はびっしりと駐車されていました。

満鉄本社ビル入口。何せ広大なので、ここは正面ではないようです。

満鉄幹部社員の社宅が立ち並んでいた通り。いまでも、かなりそれらの建物は残っています。

李香蘭こと山口淑子の住んでいた邸宅。管理されていないのか、かなり荒れ果てています。
それにしても、いずれも言わば豪邸と言えるものであり、周囲の一般の市民は相当苦々しい思いだったことは想像できますねぇ。

市内高台の展望台からの市心の眺め。飛んでいる飛行機の斜め右下あたり、ちょっと黒っぽい丸い建物が投宿したニッコーホテル大連です。
最終日は金州へ。ここは大連市の金州区という位置付けです。やはり激戦地だった南山古戦場(大軍を要した日本軍はロシアの機関銃の前にやはり死体の山を築いたところです)の後は、提督府へ。その一隅に、↓こんなものが。異様な光景です。石碑には

とあったのに、最近、反日映画の影響から、こんなものをここに置くのはおかしいという投書があったらしく、共産党はなんとこれに紙を貼って隠すというみっともない処置を。なんともやるせない、というか情けないですよねぇ。あまりにも子供じみて、滑稽ですらあります。

まあ、いずれ、もとに状態に早く戻ることを期待したいものです。
一旦、大連市内に戻りオプショナルツアーで、こんなところに。↓

右の郵便局で好きな絵柄の絵ハガキを選び、すきなスタンプを押して、ここで投函というお遊び。


出来上がったのを見て、なんと表と同じ図柄!!
その後、左手にあるコーヒーショップで一服。
寒くなった夕暮れ、市内の市場に立ち寄りました。ま、市場っていうのは、世界中、どこも似ていますね。

朝6時から夕方6時まで。あと30分で閉店だから、人影まばらです。

最終日、朝食後、出発前に、10分ほどのところにある西広場教会跡へ。両親が結婚式を挙げた教会ですが、今は残念ながら、ケンタッキー・フライド・チキンに。外装も内装も当時の面影は見られませんが、せめて躯体だけでも残されていたのはラッキーと言えるかも知れません。


元はこんな姿でした。↓

最終日の観光はロシア人街から。

大連は元はと言えば日清戦争で遼東半島を日本がせしめた筈がロシアが独仏を抱き込み3国干渉でなんとロシアに割譲、その後、日露戦争で、今度は文句なく日本のものに、という歴史を辿ったのでしたね。
というわけで、まずはロシア人が開拓した街で、ダルニー(遠い!という意味だそうです)、その後、大連、中国語ではダリアンに。意味は違いますが発音はロシアのものと近いのは偶然かな。

ロシア人街のどんずまりにあるのは大連市庁舎跡地。どうどうたる建物ですが、今は空っぽ。日本人感覚からすると、ちょっともったいないですね。

ロシア人街をちょっと入ったところに、初代満鉄総裁だった後藤新平の住んだ家が保存されていました。


路面電車に試乗しました。ガタゴトとレトロ感、たっぷり。モダンな車両も走っていますが、こちらの方が人気があるようです。

乗車はほとんどスマホ決済です。高齢でもスマホなしでは生活できないのが中国都市部。現金でも乗れますが、釣り銭はなしと表示されています。住みやすいのかそうでないのか・・・。

いよいよ帰国。22番スポットにNH904便のボーイング787の姿が。この最新式飛行機、音が静かなのには驚きました。ほんとに飛んでるのか不安になるほど。