ぐらっぱ亭の遊々素敵

2004年から、主に映画、音楽会、美術展、グルメなどをテーマに書いています。

「バルテュス展」@東京都美術館

140520 シニア・デーなので、雨の中、上野の都美術館で開催中の「バルテュス展」へ。余り好きな画家ではないが、無料で見させていただくなら、見ない手はない。

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⬆やはりこの「夢見るテレーズ」のインパクトは凄い。実物を見るべし。

この人、本名をバルタサール・クロソフスキー・ドゥ・ローラという、とんでもない名前だ。一目で東欧系と分かるが、父親がポーランド貴族、母親はユダヤ系ドイツ人と言うことだ。それにしても、バルテュスとは上手い筆名を付けたものだ。この点、マチスピカソデュフィセザンヌなど、本名そのものが素晴らしい!

 

それはともかく、大した関心もなかったから、せいぜいロリータ趣味の、きわどく危ない作品を残し、見る者を不安にさせる画家ぐらいにしか思っていなかったが、やはり生涯を俯瞰して作品群を見れば、ピカソをして”二十世紀最後の巨匠”と言わしめてのも分かる気がしてくるから不思議。ピカソは17歳も年下のバルテュスを可愛がり、彼の作品を1点購入したほどと言う。

 

若き日に、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」に魅せられて、あのハワース界隈の風景が大いに気に入り、挿絵として14点も鉛筆・インクによる作品を残していることとか、ピエロ・デッラ・フランチェスカに夢中になって模写していたことなど、彼の別の顔が窺い知れて、大いに興味深かった。

 

彼を巡る何人もの女性たちの中では、スイス人アントワネット・ドゥ・ヴァットヴィルとは正式に結婚していた期間も長く、最も影響を与え続けた女性だろう。節子と一緒になるために、最終的には離婚はしたが、生涯友人だったと。

 

女性たちと同様、住む環境も、パリ(6区のRue de Furstemberg, Cour de Rohan)、ブルゴーニュ地方、モルヴァン近くのシャトー・ドゥ・シャシー(義理の姪フレデリックと住む)、その後、友人であったアンドレ・マルローの勧めで、ローマにあるフランス・アカデミー、ヴィッラ・メデチの館長として赴任。よくこんなお固い仕事を引き受けたものだが、案外ここを気に入ったらしく、彼の感性で、徹底的にこの古ぼけた館を修復・改装したとある。

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シャシー時代の代表作「樹のある大きな風景」又は「シャシーの農家の中庭」陰影のつけかたや、直線と曲線が交錯する構成に妙味が。

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⬆今回は出品されていないが、やはり代表作の一つ「街路」.パリ時代に住んでいたクール・ドゥ・ロアンの一角を描いたもの。

 

ローマの生活が気に入らなかった妻のアントワネットは、故郷のスイスの村に帰ってしまったらしい。その後、東京で知り合った節子がここにジョインするわけだが、やがてローマ近郊ヴィテルボ近くのモンテカルヴェッロの城を買い取って住み始める。ただ、湿度の高いここの気候に馴染めず、健康上の理由でスイス、ロシニエールに移る。ひときわ大きなグランシャレーで生涯を終えるという、まさに波瀾万丈の人生。

 

それにしても、生涯を通じて少女に対する異常とも言える執念を持ち続けた。大体、自分の周辺にいる普通の少女、即ちアパートの管理人の娘だったり、隣家の娘だったり。絵のモデルとは言え、奇妙なポーズを取らせてばかりで、問題にならなかったとすれば、人柄か。自伝には「下心なき共謀」と自分を表しているが、どんなもんだろう。

 

難解な作品が多いが、彼自身、自伝では、自分の作品に込められた意味などないし、大体、絵に意味を持たせる必要があるのだろうかと書いている。ところで、展覧会会場の一角に彼の最後の住まいであったロッシニェールのグランシャレーのアトリエがほぼ実物通りに再現されていて、見学者の興味を引いている。

 

彼の若き日の写真を見ていて、誰かに似ていると考え続けていたら、そうだ、ジャン=ルイ・バローそっくりではないか。いずれにしても、なかなかの好男子であったことは間違いない。